リサとガスパールとグリニャール


先日友人に 『リサとガスパール』 のお菓子 (上の写真) をもらいました。『リサとガスパール』、知ってはいたのですが、きちんと見たのは初めてでした。手にとって見て最初に思ったのが、「グリニャールと一緒だ!」 ということ。つまり、"Gaspard" で "ガスパール"、"Grignard" で "グリニャール"。調べてみたところ、やっぱり両方ともフランス生まれでした。

私の家にあった フランス語の入門書 によると、フランス語では 語末の子音字は基本的に発音しない (ただし、語末が c、f、l、r の場合には発音することもある)。例えば、"escargot" で "エスカルゴ"。だから、"Gaspard" で "ガスパール" なのですね。また、フランス語では gn は 「ニュ」 の発音 です。例えば、"champagne" で "シャンパーニュ" (フランス語では末尾の e は発音しない)。これで "Grignard" で "グリニャール" と読むことが理解できますね。

有機化学の講義では 「"Grignard" は "グリグナード" ではなく "グリニャール" と読む」 と教えることはあっても、その背景について語ることは少ないと思います。そこで、「なぜ "Grignard" で "グリニャール" と読むのだろうね?」 と謎かけした上で、『リサとガスパール』 の "Gaspard" と似ている点、両者がフランス生まれである点、フランス語の発音の特徴について語って謎解きすれば、"グリニャール" が学生の頭に残りやすくなるのではないでしょうか。講義を受けた学生が 『リサとガスパール』 を 『リサとグリニャール』 と間違えるようになれば、講義は大成功です。

気ままに有機化学 2013年03月22日 | Comment(0) | 用語・英語

化学用語の語源 (1)

言葉の語源を知ることは、ときに新しい発見や驚きを生み出してくれます。また、語源を知ることで記憶が強固なものになったり、場合によっては未知の単語の意味を推測することができるようになります。さらに、相手を選んで上手く使えば会話を盛り上げることができます (注意:デートでは使わないように。笑)。

さて、今回は 『人物で語る化学入門 (岩波新書)』『21世紀の知を読みとく ノーベル賞の科学 【化学賞編】』『セレンディピティー―思いがけない発見・発明のドラマ』 から、「不斉」「元素」「イオン」 に関する化学用語の語源をいくつか紹介します。

chiral
「本年のノーベル化学賞は、互いのミラーイメージ (鏡像) である 2 つの形態として生じる分子に関わるものです。そのような分子は "キラル (カイラル)" と呼ばれますが、これは手を意味するギリシア語 "ケイル (cheir)" を語源としています」
[出典] 21世紀の知を読みとく ノーベル賞の科学 【化学賞編】 [p.140]

語源を同じくして英語では chiro- は手を意味する接頭辞として用いられ、chirography (筆跡)、chiromancy (手相占い) などが挙げられます。また、カイロプラクティックも、英語では chiropractic、日本語では脊柱指圧療法なので同じ語源だと思われます。

ところで、chiral でない場合には否定の接頭辞 a- を付けて achiral としますが、実は原子を意味する atom の a- も否定の接頭辞なのです。

atom
原子の英語 atom はギリシア語に由来する。a は否定詞、tom は 「分ける」 を意味するから、原子はその名前に 「これ以上分けれない」 という自らの属性を宣言しているといってよい。
[出典] 人物で語る化学入門 [p.8]

tomos は切断を意味するギリシャ語で、医療で使われる CT (computed tomography, コンピュータ断層撮影) や PET (positron emission tomography, ポジトロン断層撮影) の tomography (断層撮影)、anatomy (解剖)、『気ままに創薬化学』 の 医学英語の接頭辞・接尾辞 で紹介した -ectomy (切除、摘出)、-tomy (切開) も同じ語源です。

原子を構成する陽子と電子 (というか電気) の語源についても紹介されていました。

proton
水素の原子核の電荷は +1 であり、これ以上分割することはできないから、これは電子と同じように、原子の基本構成要素である。そこでラザフォードはこれをギリシア語の 「最初」 を表すプロトス (protos) から 「プロトン (陽子)」 (proton) と名づけた。
[出典] 人物で語る化学入門 [p.14]

electricity
古代ギリシアの人たちは、摩擦した琥珀にものが吸い寄せられる現象、つまり摩擦電気を知っていたし、その知識は中世にまで受け継がれた。実際、電気を表す英語 electricity はギリシア語の琥珀に由来する。
[出典] 人物で語る化学入門 [p.54]

ギリシア語の琥珀って何なんだろう、と思って検索してみたら、電気-wikipedia にも 「電気を表す英単語 electricity はギリシア語の ηλεκτρον ([elektron], 琥珀)に由来する。」 とのこと。電子 (electron) にそっくりですね。

イオン関連の語源についても書かれていました。cation の由来については、決して cation の真の姿。 ではないので要注意です。笑

ion, cation, anion, cathode, anode
彼 (引用注:ファラデー) は電気分解に際して、電荷を帯びたものが生じ、それが移動すると考えた。そこで 「行く」 のギリシア語 ienai をとって、その電荷を帯びたものをイオン (ion) と呼んだ。イオンには陽イオンと陰イオンとがあり、それを区別するために、前者が 「下がる」 を意味するギリシア語 katienai をとってカチオン (cation)、後者が 「上がる」 を意味するギリシア語 anienai をとってアニオン (anion) と命名された。同様に、電極の名称、「陰極」 (カソード cathode) と 「陽極」 (アノード anode) は、それぞれ、下がる、上がるに、「道」 を意味するギリシア語 hodas をくっつけてつくられた。電気分解 (electrolysis)、電解質 (electrolyte)、電極 (electrode) といった用語も同様につくられた。
[出典] 人物で語る化学入門 [p.70]

上の記述の後に、「陰イオンでもアニオンでもない、「マイナスイオン」 という言葉がその怪しげな効能とともに近年広く用いられている」 という痛烈な指摘がなされています。「マイナスイオン」 などというものは化学では存在しません。

最後に、不斉反応の研究者は必読、ラセミの語源がブドウだという豆知識でおしまいです。

racemic
パストゥールは、ワインの発酵中に樽の中に沈殿するブドウ酸 (ラセミ酸) の塩の研究を始めた (ラセミはブドウの房を意味するラテン語から来ている)。(中略) 酒石酸の塩が 「光学活性」 であるのに対して、ブドウ酸の塩がそうではないということであった。(中略) パストゥールは彼の右手型ブドウ酸の塩が実は右旋性の酒石酸の塩と同一物であることと、彼の左手型ブドウ酸の塩はこれまで知られていなかった酒石酸年の鏡像体 (鏡に写った裏返しの像) であることを証明したのであった。最後にパストゥールは、二種類の結晶を同量ずつ混ぜ合わせ、その溶液が予想どおり光学不活性となることも見つけた。パストゥールはブドウ酸の塩の二種類の結晶を選り分けることによって、化学者が今ではラセミ体の 「分割」 と呼んでいる最初でかつ最も有名な操作を行ったのである。〔パストゥールが研究したブドウ酸 (ラセミ酸) にちなんで、鏡像体どうしの混合物をラセミ体という〕。
[出典] セレンディピティー―思いがけない発見・発明のドラマ [pp.81-83]

化学用語の語源 (2) に続く・・・かも。

気ままに有機化学 2012年07月03日 | Comment(1) | TrackBack(0) | 用語・英語

蛋白質の「蛋」って何?―川本幸民と化学新書


タンパク質、漢字で書けば蛋白質。蛋白質の 「蛋」 って一体何を意味するのでしょうか?蛋白質以外の言葉で 「蛋」 という漢字をほとんど使わないので、その意味はあまり知られていないのではないでしょうか?

そもそも蛋白という言葉がはじめて使われたのは、江戸時代は幕末の 1861 年、川本幸民 (かわもとこうみん) がドイツの化学書 『化学の学校 (Schule der Chemie)』 のオランダ語版を和訳して著した 『化学新書』 です。当時はまだ化学というものが日本にはなく、蘭学者たちが西洋化学を日本に精力的に導入しはじめた頃の話です。

『化学新書』 ではさらに、多くの新しい化学用語を日本語に移さねばならなかった。「蛋白(タンパク)」 という言葉がはじめて出てくる。これはオランダ語の eiwit の訳で、ei とはタマゴで、wit は白であるので、今なら 「卵白」 と訳されるところであるが、「卵」 は象形文字で男性の性器を表す意味があることを幸民は知っていて、それを嫌ってか、「卵」 の代りに鳥のタマゴを意味する 「蛋」 の字が使われた。蛋白 (タンパク) 体、すなわち今日の蛋白質という日本語はこのようにして生まれた。
[出典] 日本の化学の開拓者たち

つまり蛋白質の 「蛋」 は卵を意味し、蛋白質は卵白質という意味だったのです (中華料理のメニューで蛋を探してみてください)。しかし川本幸民には申し訳ないですが、正直なところ、卵白質の方が意味はわかりやすいですね。なお、wikipedia にも次のようなエピソードが紹介されています。

なお「蛋白質」の「蛋」とは卵のことを指し、卵白(蛋白)がタンパク質を主成分とすることによる。栄養学者の川島四郎が「蛋白質」では分かりにくいとして「卵白質」という語を使用したが、一般的に利用されるにはいたらなかった。
[出典] タンパク質-wikipedia

ちなみに、「化学」 という言葉もこの川本幸民の 『化学新書』 ではじめて日本で使われたもの。それまでは宇田川榕菴がオランダ語の Chemie を音訳 「セイミ」 に 「舎密」 をあてたもの (なのでシャミツではなくセイミと読みます) が使われていましたが、川本幸民が中国の書籍に 「化学」 が使われているのを見て自らの訳書の題名に用いたのです。この他、「有機化学」、「葡萄 (ブドウ) 糖」、「蔗 (ショ) 糖」、「尿素」 などの用語もこの 『化学新書』 で初めて現れたものです。

また、幸民の 『化学新書』 には、それまでの日本になかった概念として分子式、原子説、当量などが現れているのが特徴です。分子式の導入では、現在の C, H, O の元素記号には 「炭」「水」「酸」 の漢字が使われ、例えば酒石酸は 炭 (C4H4O5) と書かれていたようです (現在から見ると係数は間違っています)。原子説については、単亜多面 (単アトム、原子) から 複亜多面 (複アトム、分子) が形成される説明図などが掲載されています。当量に関しては 越九乙華蓮天 (エキュイバレント) などと書かれていたそうです。(ちょっぴりヤンキー風に見えてしまうのは私だけでしょうか、いや、実はヤンキーが幕末風なのかも。笑)

さらに、幸民はオランダ書から 『化学新書』 を訳しただけでなく、そのなかで書かれている内容を実際に試してみて、日本ではじめてビールの製造、マッチの試作、銀板写真の実施を行っています。実は昨年が川本幸民の生誕 200 周年で、彼の生まれた兵庫県三田市が同県伊丹市の小西酒造に日本初のビールの再現を依頼し、幕末のビール復刻版 幸民麦酒 として製造されました。また、昨年 9 月には三田市で 幸民まつり が開催され、幸民麦酒も振る舞われていました。

上で紹介した事柄は主に 日本の化学の開拓者たち を参考にしていますが、幸民については以下のサイト・書籍・動画などでもその功績や人生をうかがい知ることができます。幸民に興味をもたれた方はあわせてどうぞ。

川本幸民-江戸の科学者列伝 (大人の科学.net)
化学をつくった男 川本幸民 生誕200年 (神戸新聞)
幸民ビールの秘密を探る (You Tube)
幸民まつり (You Tube)
蘭学者 川本幸民: 近代の扉を開いた万能科学者の生涯 (Amazon)
蘭学者川本幸民―幕末の進取の息吹と共に (Amazon)

気ままに有機化学 2011年01月12日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 用語・英語

知っておきたい化学の略語


あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。・・・若者風に略せば 「あけおめ、ことよろ」 ですね。しかし知らない人が 「あけおめ、ことよろ」 というメールをもらってもピンとこないのではないでしょうか。これは化学用語にも言えることで、初めて見る略語が急に出てくると戸惑ってしまうものです。

柴崎研の 有機化学の略語一覧 (pdf) にまとめられているような試薬名・保護基・官能基の略語のうち、よく出てくるものについては是非とも知っておきたいものです。この記事では、使用頻度は少ないけれど、学会・論文・ウェブ等でときどき見かける化学用語の略語を取り上げてみました。早速ですが、下の 5 つの略語はそれぞれ何を表すものでしょうか?


答えは、コチラ。なぜこのように略すのかについては正確なところはわかりませんが、答えを見れば何となく納得できるのではないでしょうか。こうして一度見ておくと、出てきたときにアタフタせずに済みそうですよね。私が思いついたのは上の 5 つですが、もし他に 「こんなのも知ってるよ」 というようなのがあればコメント欄でお知らせいただけると幸いです。

最後になりましたが、気ままに有機化学からも、あけおめ&ことよろ!笑

[関連1] 有機化学論文のラテン語 (気ままに有機化学)
[関連2] 通じない化学用語 (気ままに有機化学)
[関連3] プラスマイナスエーテル!? (化学者のつぶやき)

気ままに有機化学 2011年01月04日 | Comment(1) | TrackBack(0) | 用語・英語

Nakamuric acid はナカムラ酸か?


最近、いくつかのサイトなどで人の名前のような化合物としてナカムラ酸 (→ 中村さん) が紹介されているのを見かけます。人名のような化合物としては古くから オカダ酸 が知られていて、個人的には エイコサン なんかもそれっぽいなと思っていています。(→ ふたつ合わせてオカダエイコさん)

さて、本題ですがナカムラ酸は本当にナカムラ酸でしょうか?というのは、英名は "Nakamuric acid" なので和名は 「ナカムル酸」 になるのが順当ではないでしょうか?例えば "Fumaric acid" は 「フマル酸」 ですよね?同様に考えると "Nakamuric acid" は 「ナカム酸」 のはずです。実際に科学技術振興機構の 日本化学物質辞書Web では "Nakamuric acid" は 「ナカムル酸」 と訳されています。

なるほど!と思ってくださった方も多いかと思いますが、実は話はもうちょっと複雑になります。先に挙げたオカダ酸 (Okadaic acid)、その名前はクロイソカイメン (学名:Halichondria okadai) から初めて単離されたことに由来します。Halichondria okadai の okadai は岡田さんの名前にちなんで付けられたもの [参考1] なので、「オカダ酸」 は元々 「岡田さん」 に由来すると言えるでしょう。一方、Nakamuric acid もホソトゲワカイメン (学名:Agelas nakamurai) から単離されたことに由来し、nakamurai は 「中村さん」 の研究であることに由来します [参考2]。ここで疑問に思うのは Halichondria okadai 由来の酸が Okadaic acid なのに Agelas nakamurai 由来の酸が何故 Nakamuraic acid ではなく Nakamuric acid なのかというところです。このあたり、もし詳しい方がいれば教えていただけると幸いです。

・・・ということで 『Nakamuric acid はナカムラ酸か?』 については以下の 3 つの考え方ができそうです。

(1) 英名は "Nakamuric acid" なのだから、和名は 「ナカムル酸」 だ。
(2) 英名の "Nakamuric acid" が間違いで正しくは "Nakamuraic acid" であり、和名は 「ナカムラ酸」 だ。
(3) 英名が "Nakamuric acid" でも中村さんの海綿由来なのだから、和名は 「ナカムラ酸」 だ。

どれが正しいのでしょうか?他の考え方もあるのでしょうか?皆さんはどう思われますか?

[参考1] 例えば こちらの論文 に "Okadaic acid is a polyether compound with a C-38 structure, isolated from the black sponge Halichondria okadai named in honor of Yaichiro Okada." と書かれていることなどから、おそらく岡田弥一郎先生の名前に由来しています。もし誰かに 「オカダ酸って人の名前っぽくない?」 と言われたら、「うん、下の名前は弥一郎だよ」 とクールに答えてやりましょう。笑
[参考2] 例えば この論文こちらの論文 などから、おそらく中村英士先生の名前に由来していると思われます。

気ままに有機化学 2010年10月02日 | Comment(3) | TrackBack(0) | 用語・英語