顕微鏡で炭素原子の電子雲の形が見えた!?

つい先日、ベンゼン環が 5 つ繋がったペンタセンの分子構造が原子間力顕微鏡で見えたという論文が Science 誌に報告され、話題を呼びました。(この論文については化学者のつぶやきの 顕微鏡で有機分子の形が見えた! での紹介が秀逸ですのでそちらをご覧ください。)

人間の可視化能もついに分子レベルまで来たんだなぁ、などと感心していたところ、驚くべきことに 「炭素原子の電子雲が見えた」 という報告がなされようとしているとのことです。つまり 「分子レベル」 を超えて一気に 「原子レベル」 まで到達してしまったかもしれないのです。

Inside Science によると、電界放射型電子顕微鏡 (field-emission electron microscope, FEEM) の解像度と感度を極限まで高めることでついに炭素原子の電子雲を見ることができたというのです。(電界放射型電子顕微鏡の原理は、電界によって加速・制御した電子ビームを真空中で対象に照射し、対象物から放出される二次電子・反射電子・透過電子などを観測するというもので、古くは 1930 年代から使われ出した技術のようです。)

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炭素原子の s 軌道と p 軌道が見えた?

肝心の論文は Physical Review B 誌に accept されたばかりで未発表なので詳しいことはわかりませんが、「すごい」 という驚きと共に 「怪しい」 という懐疑心を駆り立てる内容です。実際、In the Pipeline のコメント欄では "フォトショップで書いたに違いない" や "s 軌道と p 軌道が重ならずに別々に見えているのはおかしいのでは?" などという意見も出ています。

しかしもし本当ならば、単原子の電子雲の形を直接観測した初めての実験であり、そのインパクトは計りしれません。有機化学の教科書のはじめに書かれている量子力学の難解な数式が、文字通り 「百聞は一見にしかず」 で確認されたかもしれないのです。

気ままに有機化学 2009年09月19日 | Comment(8) | TrackBack(0) | 論文 (その他)

アキシャルに立つとき

 立体化学の原則の 1 つに、いす型飽和六員環の置換基はアキシャルよりもエカトリアルが優位になるというものがあります。しかし 「例外のない規則はない」 ということわざに洩れず、置換基がアキシャルに立つこともあるのです。今回はメカニズムの異なる 3 つのケースを紹介します。

(1) イソプロピル基がアキシャルに立つとき/立体効果
 下に示す all-trans-1,2,3,4,5,6-Hexaisopropylcyclohexane は、驚くべきことに全ての置換基がアキシャルに立つという極めて特殊な化合物です [論文1]。置換基が 1 つしかない Isopropylcyclohexane や構造的に近い all-trans-1,2,3,4,5,6-Hexaethylcyclohexane はエカトリアル優位なことからもその特異性が感じられます。X線構造をよく見ると、メチン水素 (イソプロピルの枝分かれ部分の水素) がうまくシクロヘキサン環の内側を向いて最も立体反発の小さい形になっていることが窺えるかと思います。エカトリアル同士だとぶつかるけど、アキシャルに立てばうまくコンパクトに収まるイソプロピル基。これがミソ。この素晴らしい結果には、イソプロピル基も総立ちでスタンディングオベーションを贈っているようです。

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(2) フルオロ基がアキシャルに立つとき/電荷-双極子相互作用
 創薬化学においてピペリジン環へのフッ素の導入は常套手段の 1 つで、その目的は主にピペリジンの塩基性を落とすことですが、コンフォメーションにも関与することがわかってきています。というのは、3-フルオロピペリジンはフッ素がエカトリアル優位なのに対し、プロトン化されたものはアキシャル優位になるのです [論文2]。構造は計算、NMR、X線で裏付けしています。NH2+ の場合だけでなく、NHMe+、NMe2+ でもアキシャル優位が見られ、要因として C-F…H-N の水素結合による寄与は小さく、C→F と H→N+ の間の電荷-双極子相互作用が効いているようです。

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(3) クロロ基とブロモ基がアキシャルに立つとき/ホスト-ゲスト
 クロロあるいはブロモシクロヘキサンは通常エカトリアル優位の平衡状態で存在しますが、2005 年にアキシャル配座が "単離" されました [論文3]。それは 9,9'-bianthryl と共結晶にするという少しトリッキーな技によってです。著者らは、 9,9'-bianthryl の単結晶が小さな空洞をもち、コンパクトで立方体状のものが入りそうなことを発見し、よりコンパクトなアキシャル型のクロロシクロヘキサンを取り込むのではないかと考え、これを試みたようです。構造はX線結晶構造解析によって裏付けられています。ブロモシクロヘキサンも同様にし、X線は撮れなかったものの、IR によるエカトリアル型 C-Br の消失や、クロロ体との粉末X線パターンの比較によって、これもアキシャル型になっていると推定しています。

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最後に、これは私の勝手な想像ですが、著者らが初めてクロロ基がアキシャルに立つことを確認したとき、どこか懐かしい感動と共にこう叫んだのではないでしょうか。「クロロが立った!」

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[論文1] "all-trans-1,2,3,4,5,6-Hexaisopropylcyclohexane: an all-axial hexaalkyl cyclohexane" J. Am. Chem. Soc. 1990, 112, 893.
[論文2] "3-Fluoropiperidines and N-Methyl-3-fluoropiperidinium Salts: The Persistence of Axial Fluorine" Chem. Eur. J. 2005, 11, 1579.
[論文3] "Isolation of axial conformers of chloro- and bromocyclohexane in a pure state as inclusion complexes with 9,9-bianthryl, and the discovery of a novel 1,3 diaxial ClH weak interaction" Chem. Commun. 2005, 3646.

気ままに有機化学 2009年06月27日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 論文 (その他)

プロトンスポンジとヒドリドスポンジ

二週間ほど前の ボロン酸の進化した形 という記事のコメント欄で、1,8-ジアミノナフタレンをボロン酸の保護基として利用するという、杉野目道紀教授らの研究 [論文1] についてコメントをいただきました。ここからインスピレーションを得てヒドリドスポンジなるものを見つけたのでご紹介まで。

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1,8-ジアミノナフタレン/1,8-diaminonaphthalene

私が上のジアミノナフタレンを見てまず思ったのが、「プロトンスポンジに似てるなぁ」 ということでした。プロトンスポンジは市販の有機塩基なのでご存知の方も多いかと思いますが、下のような構造の化合物で、プロトンを強く捕捉して離さない性質があるため 「プロトンスポンジ」 と呼ばれます。

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プロトンスポンジ/proton sponge

プロトンスポンジはアニリン誘導体にも関わらず、その pKa は 12.34 (水中) と異常に強い塩基性を示します。その秘密は立体構造にあります。通常アニリンはローンペアが芳香環に共役して平面構造を取りますが、プロトンスポンジでは 4 つのメチル基の立体反発によって平面構造を取れない状態になっています。ここで、プロトンが 2 つの窒素原子にキレートされると大きな安定化を受けるため、塩基性が強くなっているわけです。実際、4 つのメチル基のうち 1 つメチル基がなくなると 100 万倍も塩基性が低下することからもその特殊な構造の重要性がうかがえます。

さて、ここでコメントいただいた記事がボロン酸に関するものであったことからか、ある考えが浮かびました。プロトンスポンジの窒素をホウ素に交換すればヒドリドスポンジになるのではないか、と。結構面白いアイデアだと思ったのですが・・・調べてみると 24 年も前に合成されてました [論文2]

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ヒドリドスポンジ/hydride sponge

論文ではヒドリドスポンジとヒドリドの錯体の X 線も撮っています。この錯体とベンジアルデヒドを 60 ℃で回しても還元反応は進行しないのだとか。それほど強くヒドリドを吸ってるということですね。・・・プロトンスポンジの N を B に換えてヒドリドスポンジ。すごくはないですが、面白いですね。

個人的には有機化合物からヒドリドを引っこ抜けたら面白いのにとか、錯形成で変色するならヒドリド試薬が完全に潰れたか調べる試薬になるかなとか、反応機構がヒドリド経由かを判定する試薬として使えないかなとか思ったりしたのですが、残念ながら触れられていませんでした。

自分が思ったことが既に論文になっているのは、悔しいような、でも論文になるようなアイデアだったというのは嬉しいような、少し複雑な気持ちですね。最後にもう1つアイデアを。プロトンスポンジとヒドリドスポンジを水素雰囲気下で混ぜたら水素分子を活性化 (プロトンとヒドリドに分割) できないかな? 遷移金属なし!有機分子触媒による水素化反応 で紹介した "Frustrated Lewis Pairs" のパクリ応用ですが、誰かやってみませんか?笑

[論文1] "Boron-Masking Strategy for the Selective Synthesis of Oligoarenes via Iterative Suzuki-Miyaura Coupling" J. Am. Chem. Soc. 2007, 129, 758-759.
[論文2] "Hydride sponge: 1,8-naphthalenediylbis(dimethylborane)" J. Am. Chem. Soc. 1985, 107, 1420-1421.

気ままに有機化学 2009年06月09日 | Comment(2) | TrackBack(0) | 論文 (その他)

ボロン酸の進化した形

 鈴木-宮浦カップリングをはじめとして N-アリール化反応や共役付加反応など今やボロン酸の有機合成化学での有用性は不動のものの1つとなりました。しかしながら、例えば鈴木-宮浦カップリングでは、リガンドのデザインに関しては 「これでもか」 というほど研究が重ねられているものの、ボロン酸自体については長年放置されてきたように思います。ようやく最近になってボロン酸の改良についての報告が相次いでなされるようになりました。
 今回はボロン酸の進化した形として、トリフルオロボレート、環状トリオールボレート、MIDA ボロネートの 3 つを簡単に紹介します。いずれも sp2 ホウ素の空軌道をブロックすることで安定性を飛躍的に高めている のが特徴です。

(1) ボロン酸、ボロン酸エステル/boronic acid, boronic ester
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 芳香族ボロン酸は比較的安定ですが、電子求引基をもつ芳香族やヘテロ芳香族・アルキル・アルケニル・アルキニルボロン酸は湿気による分解があり、取り扱いや保存性に難点があります。また、一般にボロン酸は単離や精製が困難なことが多く、また脱水三量化しボロキシンを形成するため量論量が定まらないといった問題もあります。また、反応耐性も狭く、ホウ素導入後すぐに反応に使うのが一般的です。

(2) トリフルオロボレート/trifluoroborate
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 そんなボロン酸・ボロン酸エステルの欠点を克服すべく、2000 年前後から報告が急増しているのがトリフルオロボレートの化学。調製法は、ボロン酸あるいはボロン酸エステルに KHF2 を反応させるだけで多くの場合収率よく対応するトリフルオロボレートのカリウム塩が得られます。これは結晶性の固体で空気や湿気に安定で長期保存が可能。また、ビニルボロン酸(エステル)は極めて不安定ですが、ビニルトリフルオロボレートは 100g スケールでも合成可能なんだとか!また、反応耐性も広く、ある意味ではボロン酸の保護基とも言えそうです。

[総説] "Potassium Organotrifluoroborates: New Perspectives in Organic Synthesis" Chem. Rev. 2008, 108, 288-315.
[総説] "Organotrifluoroborates: Protected Boronic Acids That Expand the Versatility of the Suzuki Coupling Reaction" Acc. Chem. Res. 2007, 40, 275-286.

(3) 環状トリオールボレート/cyclic triolborate
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 トリフルオロボレートはボロン酸のいくつかの欠点を補った改良型ですが、一方で多くの有機溶媒に溶けにくく、フッ素原子の高い電気陰性度のために遷移金属触媒に対する反応性が低いなどの改良の余地を残していました。そこで、宮浦憲夫教授らのグループ (鈴木-宮浦カップリングの開発者の宮浦先生) は、2008 年に環状トリオールボレートを新規ホウ素反応剤として報告しています。
 調製法はトリオールとの加熱脱水によりボロン酸エステルにした後、水酸化カリウムなどの強塩基を加えてさらに脱水することでトリオールボレート塩が多くの場合収率よくできるようです。このトリオールボレートは鈴木-宮浦カップリングでは塩基の添加なく反応が進行し、またアリールブロミドとの反応ではほとんどの場合に配位子の添加なく反応が進行するそうです。また、N-アリール化反応ではホウ酸やトリフルオロボレートよりも反応性が良いことを比較して示しています。現在、和光純薬から十数種類発売されています。

[文献] "Cyclic Triolborates: Air- and Water-Stable Ate Complexes of Organoboronic Acids" Angew. Chem. Int. Ed. 2008, 47, 928-931.
[総説] "有機環状トリオールボレート塩を用いる遷移金属触媒反応" 和光純薬 pdf
[総説] "トリオールボレート塩:金属触媒反応用に開発されたホウ素試薬" 和光純薬 pdf

(4) MIDA ボロネート/MIDA boronate
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 MIDA とはN-メチルイミノ二酢酸の略語で、これでボロン酸を保護する方法論がイリノイ大学の Martin D. Burke らのグループによって 2007 年から何報も JACS に報告されています。MIDA ボロネートは取り扱いが容易で、空気や水に安定かつクロマトグラフィーで精製可能、反応耐性も極めて広い。また調製(ボロン酸と加熱脱水など)や脱保護(温和な塩基性水溶液)も容易。さらに、興味深いことに、通常の無水のクロスカップリング条件下では不活性であり、含水系では活性となることがわかっており、この性質を利用してこれまで不可能だった経路での天然物の合成をいくつも報告しています。
 すでに Sigma-Aldrich 社から数十種の MIDA ボロネートが販売されており、中には通常のボロン酸では不安定すぎて作れないようなものもあります。面白いことに、論文の Acknowledgment に目を凝らすと、最初は "acknowledge Sigma-Aldrich for a gift of Pd(PPh3)4" だったのが "for gifts of reagents" に変わり、最近では "for funding" にまで変わっており、手を組んでいく様子が手に取るようにわかります。こういう風に論文を楽しむのもまた一興ではないでしょうか。

[総説] "ボロン酸MIDAエステル:反復クロスカップリング用の低反応性ボロン酸誘導体" Sigma-Aldrich pdf
[論文] "A General Solution for Unstable Boronic Acids: Slow-Release Cross-Coupling from Air-Stable MIDA Boronates" J. Am. Chem. Soc., 2009, 131, 6961–6963.

 今回はボロン酸の進化した形として、トリフルオロボレート、環状トリオールボレート、MIDA ボロネートの 3 つを簡単に紹介しました。個人的には MIDA ボロネートが頭1つ上かなという印象ですが、これから更にボロン酸は進化するかもしれませんね。

[関連] ボロン酸をタグにした多段階 Phase-Switch 合成 (気ままに有機化学)

気ままに有機化学 2009年05月27日 | Comment(4) | TrackBack(0) | 論文 (その他)

DNA折り紙 (DNA origami) の作り方の動画・論文

実は DNA 折り紙 (DNA origami) には 「折り紙でできたもの」 と 「DNA でできたもの」 の 2 種類があります。

1 つ目の 「折り紙でできた DNA 折り紙」 は折り紙で作った二重らせん。

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ちなみにこの DNA 折り紙、DNA の二重らせん構造を発見したワトソンとクリックの 1953 年の Nature の論文 で作ってみました。笑。左半分の溝にワトソンとクリックが論文中に描いた二重らせんが、右半分のらせんの縁に塩基の A と C の文字が見えるかと思います。ちなみに DNA のほとんどが右巻きであることを受けて折り紙も右巻きにし、大きな溝 (主溝、major groove) と小さな溝 (副溝、minor groove) も再現してみました。

気になる作り方ですが、ちょうど You Tube に DNA 折り紙の作り方の動画があったのでこちらをどうぞ。作り上げたときには感動すること間違いなし!


はざまの庵 さんには多数の画像を用いた丁寧な作り方の説明があります

さて、2 つ目の 「DNA でできた DNA 折り紙」 ですが、これは長い一本鎖 DNA にオリゴ DNA を二重鎖形成させて折り曲げ、高次構造を制御する技術です。この技術にかかれば DNA でスマイルマークも作れちゃうんです!これにはワトソンとクリックもビックリですね!(右下図は DNA の折りたたまれ方を示したもの)

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この成果は 2006 年の nature の論文 に掲載されたもので、著者らはこの技術を "DNA origami" と呼んでいます。他にも星マークや幾何学模様など様々な "origami" を折り上げ、nature の表紙を飾ったほどのインパクトでした。"DNA origami" の詳しい作り方は論文を参照あれ!これはさすがに誰も作らないでしょうけど。笑

以上、2 種類の DNA 折り紙でした。どちらも折り紙つきの素晴らしい技術ですよね!

[関連] 折り紙フラーレンの作り方の動画 (気ままに有機化学)
[関連] らせんを折ろう (Amazon)
[関連] 折り紙で広がる化学の世界 (Amazon)

気ままに有機化学 2009年04月27日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 論文 (その他)