Graphical Abstract のミス

Graphical Abstract はお見合いの写真やプロフィールのような性質もあると思います。そこで興味を持ってもらえたら実際に会ってもらえる (本文を読んでもらえる) し、逆にそこで印象が悪いとどんなに優れた人物 (論文) でも悪いイメージの先入観を持ってしまいます。

有機化学は構造式や反応式という視覚的に理解しやすい表現法があり、Graphical Abstract に向いた学問だと思います。しかし逆に Graphical Abstract でミスがあると内容の信憑性まで疑われかねません。今回はそういったミスを紹介したいと思います。

1 つ目はつい最近出版された Bioorganic & Medicinal Chemistry Letters [論文1]。純粋な有機化学の方はあまり見ない雑誌かもしれませんが、製薬企業の有機化学者はよく見る雑誌の 1 つです。Graphical Abstract に致命的なミスがありました。


「ん?見慣れないヘテロ環があるな」 と思ってよくよく見ると単なるチオフェン環の書き間違いでした。このような Graphical Abstract でもオーサーやレフェリーの目をスルーして出版するところまで行ってしまうことがあるので気を付けないといけませんね。

「こんな初歩的なミスは投稿前に誰でも気付くよ」 と笑っている方も多いかと思いますが、実は 2010 年 JACS の Graphical Abstract にもミスがあったのをご存知でしょうか?それが下図なのですが、どこにミスがあるかお気づきでしょうか [論文2]


普段 JACS をチェックしているけどこれには気づいていなかったという方は、もしかしたら同じようなミスをしてしまうかもしれません。自分がミスしなくても共著者のミスを見逃してしまうかもしれません。Graphical Abstract は論文の顔なので、やはり正確に美しく描きたいものです。

◆ おまけ 1
 お薬関係では こちら の Graphical Abstract にも笑って済ませられないようなミスがあります。

◆ おまけ 2
 今回は真面目に Graphical Abstract のミスを取り上げましたが、個性的な Graphical Abstract については以下の 化学者のつぶやき さんの記事をご覧ください。こういった形で人目を引くのも一つの 「戦略」 なのかもしれませんね。
 ・ 個性あるTOC
 ・ 個性あるTOC そのA
 ・ 個性あるTOC そのB

[論文1] "Activity of substituted thiophene sulfonamides against malarial and mammalian cyclin dependent protein kinases" Bioorg. Med. Chem. Lett. Article in Press
[論文2] "Highly Diastereoselective Preparation of Homoallylic Alcohols Containing Two Contiguous Quaternary Stereocenters in Acyclic Systems from Simple Terminal Alkynes" J. Am. Chem. Soc. 2010, 132, 5588.

残留溶媒・試薬の NMR データ


以前、各種溶媒の各種重溶媒中の NMR データ という記事で 1997 年の JOC の論文 [論文1] を紹介しました。よく使う溶媒の NMR データがまとまって載っていますので、「これ DMF のピークだっけ?」 とか 「重ベンゼン中で酢エチのピークってどのあたり?」 というときに便利な一枚です。

さて、つい最近 2010 年の Organometallics の論文 [論文2] に残留溶媒の NMR データ集の新バージョンが出ていました。今回の報告では、JOC のものに比べて重溶媒の種類も残留溶媒 (試薬) の種類も大幅に増えています (Organometallics らしく、有機金属の研究室で使うような重溶媒・残留試薬も含まれる形になっています)。NMR で残留溶媒・試薬を確認するときなどに使えますので、印刷して手元に置いておくと便利ですね。

追記 2010/04/30
Supporting information の "1H NMR data by chemical shift in ppm" も有用です。ピークの位置から溶媒や試薬を推測するときにはこちらが便利かと思います。コメント欄で情報くださった鉄さん、ありがとうございます!

[論文1] "NMR Chemical Shifts of Common Laboratory Solvents as Trace Impurities" J. Org. Chem. 1997, 62, 7512.
[論文2] "NMR Chemical Shifts of Trace Impurities: Common Laboratory Solvents, Organics, and Gases in Deuterated Solvents Relevant to the Organometallic Chemist" Organometallics ASAP.

気ままに有機化学 2010年04月21日 | Comment(3) | TrackBack(0) | 論文 (その他)

ボロン酸をタグにした多段階 Phase-Switch 合成

Dennis G. Hall のグループではホウ素の有機化学を研究していますが、今回ボロン酸の特徴を活かした巧みな利用法が報告されました [論文]

Hall らのボロン酸を生産的なタグとして用いた Phase-Switch 合成のコンセプトは下図のようなものです。つまり、ボロン酸をタグとしてもつ基質を反応させ、ボロン酸を利用して分液によって生成物を分離し、それを繰り返して最終的にボロン酸を他の官能基に変換するという生産的なタグの外し方をするというものです。


おそらく上のコンセプト図だけではわかりにくいので具体的に話を進めましょう。まずはボロン酸をタグとした Phase-Switch 型の分液による精製です。下図に示すように、フェニルボロン酸自身は水に不溶ですが、塩基性条件下ではポリオールと複合体を形成し、水に溶けるようになります。この性質を利用して分液だけでボロン酸の付いた化合物を分離します。


下図をご覧ください (BAはボロン酸のこと)。反応後の通常の分液で水相を捨てて水に可溶な不純物を除去した後に、ポリオールと塩基性の水溶液を加えます。するとボロン酸は水に可溶になるので、有機相を捨てれば水に不溶な不純物や反応剤を除去することができます。最後に新しい有機溶媒を加えて水相を酸性にすれば再びボロン酸は有機相に戻り、ポリオールは水相に落ちます。有機相を分離して濃縮すれば純粋なボロン酸が得られるというシステム。ボロン酸を有機相 → 水相 → 有機相と切り替えるので Phase-Switch と呼ばれます。


種々のポリオールや塩基性の水相を検討した結果、ソルビトール (1.0M) と炭酸ナトリウム水溶液 (1.0M) に最適化されました。しかもソルビトールの量は小過剰量 (>1.35eqiv) 程度でよく、例えば 4g (32mmol) のフェニルボロン酸の操作にはわずか 40mL の酢酸エチルと 50 mL の水相 (1.0M=50mmol のソルビトールと 1.0M の炭酸ナトリウムを含む) で充分だったとのことです。実用的な量ではないでしょうか。

そしてこのボロン酸タグが合成に実用的なのは、種々の反応に耐えられること、そして最終段階で他の官能基に変換できる性質があるためです。実際、論文中では IBX 酸化、NaBH4 還元、DIBAL 還元、 DCC エステル化、PyBOP アミド化、Grignard 反応、細見・櫻井反応、Wittig 反応、Huisgen 反応に耐性があり、Phase-Switch の精製により充分な純度・収率で目的物が得られることが示されています (Wittig 反応ではやっかいなホスフィンオキシドとの分離もできるそうです)。そしてボロン酸を他の官能基に変換できる性質も利用して、高脂血症治療薬である ezetimibe を合成しちゃってます。この合成ではボロン酸が Phase-Switch のタグとして多段階で利用されているだけでなく、マスクされたヒドロキシ基として上手く合成に組み込まれています。


以上、ボロン酸をタグにした多段階 Phase-Switch 合成の紹介でした。分液タグとして フルオラスタグ など幾つか知られていますが、タグを付ける・外すという二段階が必要になってきます。その点ボロン酸は、市販で 500 以上のボロン酸化合物があり、またボロン酸を他の官能基に変換する生産的な外し方ができます (もちろんプロトン化もできます)。市販性・反応耐性・ポリオール複合体を利用した分液精製・他の官能基への変換など、総じてボロン酸の性質を巧みに利用した方法ですね。

[論文] "Multistep Phase-Switch Synthesis by Using Liquid-Liquid Partitioning of Boronic Acids: Productive Tags with an Expanded Repertoire of Compatible Reactions" Angew. Chem. Int. Ed. 2010, Early View.
[関連] ボロン酸の進化した形 (気ままに有機化学)

気ままに有機化学 2010年02月11日 | Comment(2) | TrackBack(0) | 論文 (その他)

化学界の 2009 年の漢字は 「偽」 か?


2009 年を振り返ると、化学界の今年の漢字は 「偽」(あるいは「疑」) と言えるかもしれません。

1) Climategate 事件
 2009 年最大の事件はおそらくこれではないでしょうか。「地球温暖化に関する大御所研究者のこれまでのデータと email 等が流出。そのデータから、研究の不正・印象操作が発覚(地球温暖化は CO2 が主要因ではない&そもそも温暖化してない?!)」 とのこと。詳しくは以下をどうぞ。
[参考] 科学史上最悪のスキャンダル?! "Climategate" (化学者のつぶやき)
[参考] Climatic Research Unitメールハッキング事件 (Wikipedia)

2) 水素化ナトリウムで酸化反応?
 JACS に発表された この論文 に世界中から疑問の目が。追試したブロガーによると空気中の酸素が酸化剤として働いている可能性があるとのこと。オンラインで発表されて以来ずっとページ番号が付かない状態だったのですが、つい最近ついに取り下げられたようです。
[参考] 水素化ナトリウムの酸化反応をブロガー・読者がこぞって追試!? (化学者のつぶやき)
[参考] NaHによるアルコールの酸化反応(?????) (有機化学美術館・分館)

3) 真の触媒は鉄ではなく不純物の銅
 ACIEE に報告された この論文。今まで Bolm が報告してきた鉄触媒による各種アリール-ヘテロ原子結合形成反応が、実は鉄塩に微量含まれていた銅塩が真の触媒だったとのこと。現代化学 2009年 09月号 にレビューがあります。
[参考] 鉄の仮面の下に (有機化学美術館・分館)
[参考] 触媒は思わぬところに; 論文3報 (気ままに有機化学)

4) ヘキサシクリノールの全合成捏造疑惑
 OL に報告された この論文。2002 年に構造が提唱され、2006 年に報告された初の全合成。しかしその後訂正された構造が発表され、そちらも全合成を達成。構造の違う 2 つが同じ NMR を持つのか、あるいはどちらかが捏造なのか・・・。現代化学 2009年 05月号 にレビューあり。
[参考] Hexacyclinol Debate Heats Up (C&EN)
[参考] 今月のお知らせと訂正とお詫び (有機化学美術館・分館)

5) 論文取り下げとその裏にあった話
 サイエンス誌と米国化学会誌(JACS)は、結果に再現性がないとして著名な化学研究室の論文 2 件を撤回。その裏で起きた恐喝未遂や自殺をほのめかす脅迫。詳しくは以下をどうぞ。 
[参考] A Dark Tale Behind Two Retractions (Science)

上の記事を書くに当たっては 2009: A Year for Faked Science を参考にさせていただきました。それから少々センセーショナルなタイトルを付けてしまいましたが、例年よりもそういった話題が多い印象だったというだけで、もちろんそれ以上に数多くの素晴らしい化学が報告された一年でもありました。その一部は C&EN の Chemical Year In Review 2009 に紹介されていますので、コタツでミカンでも食べながら目を通してみてはいかがでしょうか。

気ままに有機化学 2009年12月26日 | Comment(9) | TrackBack(0) | 論文 (その他)

Nature/Science 誌に有機化学が続々登場

私の大学院時代の師匠にあたる方は論文セミナーで Nature/Science 誌をよく取り上げる人でした。しかしその頃 Nature/Science 誌に有機化学の論文が掲載されるのは月に 1 つもありませんでした。ところがこの 9 月〜 11 月はたった 3 ヶ月の間に 9 つもの有機化学系論文が!少しジャーナルの色が変わってきているのかもしれませんね。

"Scaleable catalytic asymmetric Strecker syntheses of unnatural α-amino acids"
Eric N. Jacobsen et al. Nature, 2009, 461, 968.
チオウレア触媒を用いた不斉 Strecker 反応による非天然型α-アミノ酸のグラムスケール合成。ちなみに日本では長瀬産業が丸岡触媒を用いた不斉アルキル化で非天然型アミノ酸を合成しています。なお 現代化学今月号 には佐藤健太郎氏による Strecker 反応のレビューあり。

"Formation of ArF from LPdAr(F): Catalytic Conversion of Aryl Triflates to Aryl Fluorides"
Stephen L. Buchwald et al. Science, 2009, 325, 1661.
芳香族トリフラートをフッ化物へ変換する反応。Buchwald らしく配位子 tBuBrettPhos が鍵のようです。化学者のつぶやきに 解説記事 あり。

"Chiral Organic Ion Pair Catalysts Assembled Through a Hydrogen-Bonding Network"
Takashi Ooi et al. Science, 2009, 326, 120.
水素結合で構築されたキラルイオンペア有機触媒によるアシル等価体の共役付加反応。超分子の構造はX線で解析。有機分子触媒の新しいクラスの先駆けとなるか。

"Synergic Sedation of Sensitive Anions: Alkali-Mediated Zincation of Cyclic Ethers and Ethene"
Robert E. Mulvey et al. Sience, 2009, 326, 706.
アルカリ金属と亜鉛の bimetallic な塩基を用いて、THF α位やエチレンの安定な脱プロトン化を達成。得られた錯体は驚くべきことにX線構造解析ができるほど安定だったとのこと。更にベンジルクロリドによるアニオンのトラップまで。不可能がどんどん可能に。

"Isolation of a C5-Deprotonated Imidazolium, a Crystalline "Abnormal" N-Heterocyclic Carbene"
Guy Bertrand et al. Science, 2009, 326, 556.
イミダゾリウム塩の C5 位を脱プロトン化したアブノーマル NHC の合成、単離、X線構造、反応について。化学者のつぶやきに 解説記事 があります。ちなみに同時期に JACS に新規 NHC として diamidocarbene が報告されています。

"Carbenes As Catalysts for Transformations of Organometallic Iron Complexes"
Robert H. Grubbs et al. Science, 2009, 326, 559.
鉄-カルベン錯体を作ろうと Fe(COT)2 に NHC を加えて配位子交換させようとしたときに鉄三核錯体が取れたとのこと。化学者のつぶやきに 解説記事 があります。

"Reversible Reactions of Ethylene with Distannynes Under Ambient Conditions"
Philip P. Power et al. Science, 2009, 325, 1668.
重い多重結合の一種 Sn≡Sn がエチレンとの [2+2] 反応を可逆的に起こすことの発見。化学者のつぶやきに 解説記事 があります。

"Selective Phenol Hydrogenation to Cyclohexanone Over a Dual Supported Pd–Lewis Acid Catalyst"
Buxing Han et al. Science, 2009, 326, 1250.
Pd/C, H2 に AlCl3 のようなルイス酸を加えることでフェノールからシクロヘキサノンへの選択的還元ができる (>99.9% conversion/selectivity)。ルイス酸を加えないと一部がシクロヘキサノールまで過剰還元。シクロヘキサノンはナイロンの原料で、現在はシクロヘキサンの酸化で作っています。ちなみに同じ日に別グループからも似た内容の 論文 が出ていました。

"Ligand-Enabled Reactivity and Selectivity in a Synthetically Versatile Aryl C-H Olefination"
Jin-Quan. Yu et al. Science Express.
フェニル酢酸類の C-H オレフィン化反応の開発。Pd 触媒、1気圧酸素下、リガンドが鍵の模様。実は内容読めてませんが、Chemistry World に 紹介記事 がありました。

こうして並べてみると、どれも素晴らしい研究成果であることは間違いないのですが、私にはどうも JACS/Angewandte との違いがピンときません。それから Nature Chemistry も創刊されましたし、Chemical & Engineering News によると近々いくつかジャーナルが新刊されるようです。今後の有機化学のジャーナルは一体どういった勢力図になるのでしょうか?

気ままに有機化学 2009年12月05日 | Comment(2) | TrackBack(0) | 論文 (その他)