シス型(Z型)よりもトランス型(E型)の方が一般的に熱力学的に安定なのは言うまでもありませんが、生体分子の二置換オレフィンの中にはシス型の方が多いものがあります。代表的なものは油脂(高級脂肪酸)、ロドプシン(レチノール)、天然ゴム(ポリイソプレン)だと思います。これらについて「何故シス型なのか?」という疑問を高校のとき以来抱いていた(のを思い出した)ので調べてみました。化学の目から生物のシス型オレフィンの機能を明らかにしていきたいと思います。
最近の有機化学では アゾベンゼン が光や熱を受けることでシス・トランス異性化することを利用したスイッチ分子の開発が盛んに研究されていますが、それ以前から生物はシス型二重結合を巧妙に利用してきたことが窺えると思います。
先に断わっておきますが、今回の内容はよっちゃんが独自に調べたり考えたりした内容であり、それが正しいという確証はありません。できるだけ精確な書き方を心がけたつもりですが、もし誤りや追加・補足等あればコメント欄でお知らせいただけると幸いです。
【1】 油脂(脂肪酸)
さて、生体分子のうちシス型が多いものとして真っ先に思い浮かぶのは油脂などに含まれる脂肪酸ではないでしょうか?動植物の脂肪酸に含まれる二重結合はそのほとんどがシス型であることが知られています。さて、ではなぜシス型なのでしょうか?それに対する答えは少なくとも以下の2種類あると思います。
(1) 流動性の確保
シス型では分子の形が大きく折れ曲がるため、パッキング(分子の配列)が悪くなり融点が下がります。例えば細胞の脂質二重膜などは 流動モザイクモデル で知られるようにその流動性が重要とされています。
実際、トランス型や飽和の脂肪酸は固体であることが多く、常温で固体の牛脂や豚脂(動物の脂身)には飽和脂肪酸が多く含まれることやマーガリンはシス型の油脂に水素添加したものであることを考えると納得が行く話かと思われます。さらに、深海魚などでは低温でも細胞膜の流動性を保つために不飽和シス型脂肪酸を多く含むことが知られています。
(2) 生理活性の発現
脂質の生理活性の発現機構にはまだわかっていないことが多いので一概には言えませんが、少なくとも一部の脂肪酸についてはトランス型や飽和の脂肪酸では生理活性を示さないがシス型では生理活性を示すような例も見つかっているそうです。おそらく他の生体分子との相互作用において大きく折れ曲がったシス型の構造が必須なのではないかと推察されます。
また、生理活性が比較的はっきりしている アラキドン酸カスケード において、4つのシス型二重結合を有するアラキドン酸から プロスタグランジン・トロンボキサン・ロイコトリエン などのシス・トランス型の混じった エイコサノイド を作る際にも、シス型からトランス型に異性化させるのは容易で逆は困難なことを考えると、原料であるアラキドン酸がシス型を有していることは生理活性物質の生合成経路として有利であろうと考えられます。
ちなみに、最近話題の「トランス脂肪酸」というのはトランス型の二重結合をもつ脂肪酸で体に悪影響があるとされています。シス型の天然の脂肪酸も高温で加熱したり酸化されると一部異性化するので、揚げ物をした油や古い油などに含まれるとされています。またマーガリンはシス型の脂肪酸に水素添加したものですが、この水素化の過程でも一部トランス化するため、欧米では規制がかかってきているようです。個人的にはどの程度有毒なのか若干疑いの目で見ているのですが、この例からもトランス型とシス型で生理活性が大きく違うことが示唆されていることがわかります。
【2】 ロドプシン(レチナール)
ロドプシン は視細胞において光センサーとして働く分子で、オプシンと呼ばれる蛋白質に レチナール が結合したものです。簡単に言えば目において光を感知する分子です。そして視細胞内でのレチナールに含まれるある二重結合はシス型であることがわかっており、これが 光を感知する機能に重要 なのです。
と言うのは、光刺激による11-シス-レチナールからオールトランスレチナールへの異性化で大きな構造変化を起こし、その構造変化をシグナルの始点として光の情報が脳に送られるからです。もしオプシン中のレチナールが安定なシス型だと光刺激を受けても構造変化しないでしょうし、もちろん飽和でも同じことです。あえて不安定なシス型の二重結合を用いることで、光刺激によってトランス型へと異性化する構造変化を巧みに利用 しているようです。ちなみにトランス型へ異性化したレチナールは暗所で酵素的にシス型へと戻されるそうです。
蛇足ですが、最近の関連する研究として、産業技術総合研究所がレチナールをフラーレンと結合させ、カーボンナノチューブ内に閉じ込め、単分子の構造変化を直接観察することに成功したという研究成果が注目を浴びています(コチラ)。分子イメージングの技術も着々と進歩しているようです。
【3】 天然ゴム(ポリイソプレン)
天然ゴム の主成分は化学的にはポリイソプレンであり、それに含まれる二重結合はほとんどすべてシス型であることが知られています。そしてこれは化学的には極めて不自然な事態です。なぜなら、イソプレンの重合では下の4種の重合形式(+それらの混合)が考えられるにも関わらず、1種類だけ、しかも熱力学的に不安定なシス型のみができているからです。
もちろん反応はゴムの木において酵素的に行われるわけですが、それがシス型を取っているのは ゴムの弾性に必須 だからです。弾性は輪ゴムが伸び縮みしたりゴムボールが跳ねたりする性質です。
まず、「通常の弾性」と「ゴム弾性」が異なるものであることを説明しなければなりません。「通常の弾性」は化学結合を引っ張られたり圧縮された状態から戻る力であり、「ゴム弾性」は高分子の立体構造が引っ張られたり圧縮された状態から戻る力であり、エントロピー弾性 とも呼ばれます。つまり元々不規則な立体構造(エントロピーが大きい状態)が、引っ張られたり圧縮されたりすることである程度規則的な立体構造(エントロピーが低い状態)になるため、戻ろうとする力が働くわけです。また、「通常の弾性」が化学結合レベルの伸び縮みであるのに対し、「ゴム弾性」が高分子の立体構造レベルの伸び縮みなので、「ゴム弾性」の方がはるかに大きな弾性を持つことになります。
ここで、ポリイソプレンの二重結合がシス型であれば、分子の形が大きく折れ曲がるのでより不規則な立体構造になり(高いエントロピー状態)、弾性も大きくなる わけです(トップの画像はシス型ポリイソプレンの立体構造の例)。実際、トランス型のポリイソプレンはほとんどゴム弾性を示さないそうです。ちなみに古い輪ゴムは伸び縮みしなくなりますが、これは二重結合が酸化されてゴム弾性を示さなくなるためです。
最後に疑問に思うのは「なぜゴムの木は弾性の高いシス型ポリイソプレンを産生するのか?」です。進化の中立説 に代表されるように何でもかんでも理由があると思い込むのは必ずしも正しくないようですが、粘度が高かったり弾性が高かったりするシス型ポリイソプレンの合成はおそらく外敵となる動物(とりわけ鳥類や昆虫)が木の表面を傷つけたときにそれを分泌することで身を守っていたのではないかとよっちゃんは思っています(根拠なし、何か情報あればお願いします)。
長文になりましたが、生物がシス型構造によって分子が大きく折れ曲がるという性質をとても巧妙に利用している ことは間違いなさそうです。最近、有機化学で研究されている アゾベンゼン の光・熱によるシス・トランスのスイッチ分子の開発がどのような機能性分子に応用されてくるのか楽しみです。
興味深い指摘、ありがとうございます!基質の直線性と合成効率の関係については私もよく知りませんが、シス−トランス異性化酵素があるということはトランス体も酵素に十分はまるということなので、著しい差はないのではないか思ったのですが…。
それから、そもそもなぜ生体分子に不飽和結合があるのか考えてみてください。分子の安定性で言えば不飽和よりも飽和の方が明らかに安定なので、わざわざ不飽和結合を組み込むならシス体でないとトランス体では飽和とほとんど同じ立体構造になるのであまり意味のないことだと思います。
よって、『わざわざ不安定な不飽和結合を組み込んでいるのは、やはりトランス体による立体構造の変化が生物にとって有利であったから』ではないかと思うのです。これも素人考えですが・・・(^_^;)