研究生活はいつも順風満帆とはいかない。壁に何度もぶつかる。この研究に意味があるのだろうか、方向が間違っていないか、どうすればこの壁を越えられるのか、どうして失敗ばかり続くのか、こんな結果はおかしい、自分は人生を誤ったのではないか、などなど。そんな苦しいときに力を与えてくれるのが江上語録である。
生命科学分野で自身が業績をあげるのみならず優秀な科学者 (お弟子さん) を数多く輩出した江上不二夫先生。その言葉「江上語録」はたくさんの科学者に影響を与えたそうですが、先生はもっぱらしゃべる人であまり書かなかったため、「江上語録」という本があるわけではありません。そんな無形文化財ともいうべき江上語録を、江上先生のもとで指導を受けた笠井献一先生が解説とともにまとめた 『科学者の卵たちに贈る言葉――江上不二夫が伝えたかったこと』 が最近出版されました。
例えば、江上語録の中で弟子なら真っ先に思い出すのが次の言葉だそうです。
実験が失敗したら大喜びしなさい。
あえて常識と相反するような刺激的な言い方で「えっ」と思わせ、そこから自分のペースに引きずり込むのが先生の戦術だそうです。実際には次のような江上語録が続きます。
失敗と言っても、ビーカーをひっくり返して、中身を床にこぼしたなんていうのは論外だよ。私の言いたいのは、こうなるだろうと予想を立てていたのに、そのとおりの実験結果が出なかった場合のことなの。実験結果が予想どおりだったなら、実験は成功なんだけれど、そんな実験はたいして面白いものじゃないよ。予想できたことを確認できただけなんだから。たいしたことを発見できたわけじゃない。
確実に結果が予想できるような実験なんて、やってもあまり意味がないじゃない。どんな結果になるかわからない実験こそ価値があるのよ。そうして、もしも予想もしなかった結果になったら、そこにはまだ誰も知らない何かが隠れているということなんだ。世界をあっと言わせる大発見になるかもしれないんだから、君は大喜びしなければいけないよ。
この後には他の関連する江上語録や状況説明、生命科学分野での関連する事例などが解説されています。さらに、先生が論外と言った "ビーカーをひっくり返すような失敗" のような操作上の失敗から大発見につながった例なども紹介されており、江上語録だけでなく笠井先生の解説部分も本書の読み応えのある部分になっています。
有機化学分野でも予想外の実験結果からの大発見もたくさんあり、たとえば 試薬クイズ の事例は好例のひとつだと思われます。
そして個人的に非常に印象的だった江上語録がこちら。
予想を立てるには、自分のもっている知識を総動員しなければならないけれど、自然は人間の頭で考えられるよりもはるかに偉大で複雑だよ。これまで数えきれないほどの実験がやられて、たくさんの優秀な頭脳が考え続けてきたけれども、まだわかっていないことの方がずっと多い。これまでの知識をもとにどんなに素晴らしい予想を立てたところで、たいていは当たらない。そうなったときは謙虚に自分の未熟さを認めて、自然から教えてもらう。これが実験科学者の取るべき姿勢だよ。
さて、本書には上で紹介したもの以外にも数々の江上語録が掲載されていますが、そのうちのいくつかを無料で読む方法を発見しました。実は、Trends in Glycoscience and Glycotechnology に掲載されている、笠井献一先生自身が書かれた江上語録の紹介文献 (日本語版付き) が無料公開されているのです。下に各文献へのリンクを貼っておきます。
江上語録1 「実験が失敗したら大喜びしなさい」
江上語録2 「3ヵ月研究したら世界の最先端」
江上語録3 「牛馬的研究、銅鉄的研究も悪くない」
江上語録4 「私はおとなしい研究者だ」
江上語録5 「研究テーマを決めるにあたっては研究室の伝統を尊重しなさい」
江上語録6 「独創的研究を追い求めるな」
江上語録7 「ひとに見えない山をみつけたら、ぼくは早く登りたい。ひとにも見える山に登るなら、ぼくはゆっくり登りたい。」
『科学者の卵たちに贈る言葉――江上不二夫が伝えたかったこと』 にはこれら以外の江上語録や秀逸なエピローグもありますので、気に入った場合は本も読んでみてくださいね。